漢字は、わが国でははじめから国字として用いられた。伝来された漢籍も、わが国で学習される時期には、訓読的な方法が用いられたであろう。新羅で行われていた「郷歌」の形式のように、漢語を交えた語法があったとすれば、その方法を訓読に適用することは、それほど困難であったとは思われない。それはたとえば、古代の朝鮮において、「鸚鵡能言(鸚鵡能く言ものいふ)」を、イディオムとしてそのまま音読するというような方法が、わが国にはその痕跡をも残していないということからも考えられる。複合の名詞も動詞の類もすべて訓読する〔日本書紀〕の文章は、はじめから訓読すべきものとして書かれており、後になって訓点を加えたという性質のものではない。
漢字が国語表記の方法として用いられた初期の状況は、特に重要な問題を含むものであるから、私は別に〔字訓〕にそのことをまとめておいた。それで本書では、内外典の典籍の訓読を通じて、字訓がどのように加えられてきたかを、いくらか歴史的にたどることを試みた。
わが国の字書は〔篆隷万象名義〕にはじまり、和訓を加えたものは〔和名類聚抄〕以来、〔字鏡〕〔音訓立〕、最もまとまったものでは〔類聚名義抄〕に代表される、一般に「和玉わごくへん」とよばれる仮名訓注本に至って完成する。和訓は文語としての訓であるから、文語の完成期までの資料を第一資料として、記録しておくのがよいと思われる。
わが国の字書の歴史は、そのような和訓の資料としての意味のほかにも、わが国における漢字文化の一環としての歴史的な意味をも担うものであるから、これらの書に簡単な解説を加えておきたい。
わが国の最も古い字書に、弘法大師のと伝える〔篆隷万象名義〕三十巻がある。京都の高山寺にその古写本を蔵し、国宝とされている。この書は〔玉〕三十巻の部立と次により、その反切・訓義を抄録したもので、各字上欄に篆字を加え、本文掲出字の隷字(今の楷字)と対照するものであるから、〔篆隷万象名義〕という。篆隷を併せ掲げることは唐の当時にもあり、また〔名義〕は「翻訳名義」の意で、多く仏典関係の字書名に用いた。しかしこの書は仏典とは関係なく、一般字書として作られている。いわば〔玉〕の節略本であるが、この書に篆体を加えているところに、大師の創意があったかとみられる。その篆体の字は、神田喜一郎博士の指摘にもあるように、古い〔説文〕系写本にみられる懸針体で、字形はやや狭長、懸垂の末筆は細く長くかかれている。大師在唐のときの篆体は、李陽冰のいわゆる玉体、今の篆刻印判のような字様であるから、懸針体の篆字を加えることには、特別の主張があったものとみなければならない。本文にもいくらか〔説文〕による説解が加えられている。ただ高山寺本の大部分に篆体を省略しているのは、字形学的あるいは書法的な問題の意識が、のちの人に失われていったからであろう。〔説文〕のような字形への理解は、篆字形がなくては不可能なことであった。
〔篆隷万象名義〕は、篆隷を併せ掲げることによって、字形学的な理解を加え、また「万象」にわたる字書として、「名義」類の仏典翻訳書の性格を脱し、一般字書としての方向をとろうとしたものであった。ただその訓は、たとえば「(神)」字条に、〔玉〕には〔説文〕〔書〕〔易、王弼注〕を引き、最後に「爾に云ふ、は重なり、治なり、愼なり。廣に云ふ、は弘なり」とあるうち、治・愼・重・弘の訓のみをとる。また「」には「大なり・なり」とあるが、「なり」は〔説文〕によって加えた訓である。このような〔玉〕と本書との間にある異同については、周祖氏の〔問学集〕に詳細な論述がある。字形に〔説文〕の篆体をとり、訓義に多く〔玉〕をとるという本書の方法は、字書としては、六朝以後〔切韻〕系の韻書が盛行し、字形・訓義の書が衰微してゆく傾向の中にあって、一種の見識を存するものであったということができよう。
〔篆隷万象名義〕より六十年ほどのち、昌泰(八九八―九〇一)のころに、昌住の〔新字鏡〕が作られた。〔玉〕は〔説文〕を増益して、所収の字は一万六千九百十七字に及んでいるが、〔新字鏡〕は所収約二万九百四十字、これを「天・日・・・雨・气・風・火」「人・・親、身・頁・面・目・口〜」のように、部門別に部首字を列する配列法をとる。〔爾雅〕の「釋天」「釋地」のような部立に似ており、後の類書の形式に近い。そして天・日・をそれぞれの部首とする字を録しているので、〔説文〕の部首法を、類書の分類法に分属する形式をとる。それでたとえば天部に、天・昊・・替・蚕などを録し、また九天の名を列するが、〔説文〕には天の部がなく、昊以下はみな他部の字、九天の名をあげるのは、類書の形式である。またの次にを列するのは形によるもので、は天の部門に入るものでない。類書の部門と字書の部首法とは、分類の方法が異なり、そのため天部のように部首の属に混乱が多く、ことに部首を立てがたいものが多くて、それらはすべて「雜」に収め、その字数は六百五十三字に及ぶ。部首の混乱と非部首字が多くて、この書は検索の極めて困難なものとなっている。また所部の字の多いものは四声別の配列により、〔切韻〕系字書のなごりをとどめている。文字にも古体・異体の字が多く、おそらく依拠するところがあったのであろう。〔新字鏡〕のような編集法が、昌住の創始したものであったのかどうかは、明らかでない。書名に「新」と冠することからいえば、先行の書に「字鏡」という題号の字書があったのであろう。
〔新字鏡〕の訓注は、著者が漢字学習の困難を嘆き、〔一切経音義〕のような訓注を字書として編集したいと考えて、諸書を渉猟して訓注を集めたものであるらしく、それに多く和訓を加えている。その形式は次のようなものである。
或作、於計・邑計二反、去、陰而風曰、亦翳也、言、奄翳日光、不也、无光也、太奈久(毛)礼利、、久留、、久毛利天加世不久
字の異体・別体につづいて、反切・四声・訓釈、そして万葉仮名による和訓を加える。万葉仮名による和訓は約三千七百条、多く古訓を存するため、その部分を節録した享和本や群書類従本の類がひろく行われたが、原本は一般にはかなり扱いにくいものとして、敬遠されていたようである。
字条の注は、「或いはに作る」は〔一切経音義、十〕、「陰りて風ふくをと曰ふ」は〔爾雅、釈天〕、「翳なり。言ふこころは、雲氣日光を掩翳して、らかならざらしむるなり」は〔釈名、釈天〕の文によって「雲氣」の二字を脱し、「光无きなり」は、あるいは編者が加えた訓であろう。のちの〔和名抄〕には字を収めず、これらの和訓もない。
本居宣長の〔玉かつま〕九四六に、次の一条がある。
新字は、かつて世にしられぬふみなりしに、めづらしくきころ出で、古學びするともはあまねく用ふるを、あつめたる人のつたなかりけむほど、序ののいと拙きにてしるく、すべてしるせるやう、いとも心得ぬ書なり。そはまづ其の字ども、多くは世にめなれず、いとあやしくて、から書きはさらにもいはず、こゝのいにしへ今のふみどもにも、かつて見ぬぞ多かる。
編集上、そのような欠点の多い書であるが、わが国最古の字書として、動かしがたい価値があることをも、宣長は認めている。
されば拙きながら、時世の上りたれば、おのづから訓はみな古言にて、和名抄よりまさりて、めづらしきこと多く、すべて彼の抄をたすくべき書にて、物まなびせん人の、かならず常に見るべき書にぞありける。
これらの古訓は、序に「或いは東倭の訓り、是れ書私記の字なり」とあり、編者が自ら書きとって集めたものである。全書にみられる音・訓の混乱も、そのような収録の過程で生まれたものであろうが、そこにかえって編者の労苦をみることができるようである。
源順の〔和名類聚抄〕は、略して〔和名抄〕とよぶことが多い。書名の示すように類聚形式のもので、全巻を「天地・人倫」巻一、「形體・疾・」巻二、「居處・舟車・珍寶・布帛」巻三〜「稻・・果」巻九、「木」巻十の十巻二十四部に分かつ。他に二十巻本、四十部二百六十八門とする増補本がある。この部立では文字は主として名詞に限られ、動詞・形容詞など用言の大部分を収めることができず、〔篆隷万象名義〕と同じく、字書としては大きな制約をもっている。
その説解には、〔爾雅〕〔説文〕〔玉〕〔切韻〕など、多く中国の字書を引き、またわが国の奈良期の字書とみられる〔楊氏漢語抄〕〔弁色立成〕や〔和名本草〕〔日本紀私記〕など、古い訓注類の引用が多い。この書は源順の序によると、帝の皇女勤子内親王の依嘱を受け、和訓を施すための字書として編修し、前記の諸書からその和訓を収めたものであるという。収録の字が名物に限られているため、古語を多くしるした〔私紀〕の資料などは多く棄てられているが、なお二千六百語に及ぶ和訓を存している。
その記述の形式は、多く内外の書を徴引し、和訓を施すもので、徴引の書は二百九十余種に及ぶ。原文の形式をみるため、一条を録する。
雷霹靂電附、名云、雷、一名雷師雷、力回反、和名、奈加美、一云、以加豆知 釋名云、霹靂辟二、和名、加美渡計、〜玉云、電甸、和名、以奈比加利、一云、以奈豆比、云、以奈豆末
泉 日本紀私記云、漁人阿辨色立云、泉和名同上、楊氏語抄、同、集云、人 (巻一)
この書には狩谷斎の〔箋注〕があり、詳審を極めている。また別に二十巻本があり、歳時・音楽・香薬・職官、また国郡名のような大量の実務的項目が加えられていて、官公署用の百科辞書的な性格が著しくなっている。
古訓和語の集録は、〔類聚名義抄〕に至って大成される。略して〔名義抄〕という。「名義」は「翻訳名義」の意で、もと仏典のためのものであるが、のち次第に改編されて、文字はひろく字書の全体に及び、和訓は仏典外の訓読書の訓義をも捜集し、わが国の古訓のすべてを網羅するものとなった。その成立には数次にわたる改編があったものと思われるが、現存の資料によっていえば、図書寮本が原に近く、蓮成院本系統に至ってややわり、観智院本に至って完成したといえよう。ただ観智院本も数次の書写を経たものであるらしく、誤写がかなり多い。いま各書からそれぞれ一条ずつを録しておく。
、玉()曰、、餘絹反、脩・東・由・因循・從・附・欺言、メグル ヨリテ コトノモト シタガヒテ
なお以下に無(原)任、ヨシナシ以下、、因、等無、〜、覺など、多く仏典の語を録し、仏典の文を引いている。
この条は、観智院本とまったく同じであるが、観智院本には、書写の誤りと思われるところがある。
白帛 シロシ キヨシ マウス スサマジ サカヅキ スナホニ
イチジロシ カタチ カタラフ モノガタリ ト、ノフ カナフ 白シラ カナリ 白地アカラサマ イチジルシ
この条は鎮国守国本とほぼ同じであるが、「イチジロシ」の訓が多く、そこに斜線が加えられている。書中に多くみえるこの種の斜線は、他本との対校のときに加えられたものであろう。白皙・白地の連語も、ここに新たに加えられている。
〔本朝書籍目録〕に〔仮名玉〕三巻を録している。その書は佚して伝わらないが、これがいわゆる〔倭玉〕の祖本と考えられ、〔名義抄〕もなお「仏」「法」「僧」三部の編成である。同じくこの系統のものに〔音訓立〕〔字鏡〕があり、近年竜谷大学本〔字鏡集〕が刊行された。〔竜谷本〕は完本であり、和訓も多く、おそらくこの種の字書の、完成期の著作と考えられる。〔立〕以下はいずれも室町期の写本とみられ、いわゆる和訓は、ここに集大成されているといえよう。
以上に古訓の字書について概説したのは、〔字訓〕にとり扱った時期につづいて、平安・鎌倉・室町期は、漢字が国字として定着し、〔文選〕〔史記〕など漢籍の翻読がすすみ、抄物の著作、漢文の形式による詩文の制作などもひろく行われて、わが国における漢字の用義法が、ほぼ完成した時代と考えられるからである。それで本書には「古訓」の項目を設けて、〔新字鏡〕以下、和訓のとるべきものを収めることにした。漢字の訓義は、ほとんどここに網羅されているといってよい。そこにはわが国における、いわば漢字の生態をみることができよう。